2021年12月14日栃の木の写真
こんにちは、とちの木薬局です。薬局内の待合室に、存在感のある一枚の写真が飾られています。写真には大きな栃の木、そしてその根本に石碑が見えます。
とちの木薬局の名前の由来は、薬局の裏に存在していた大きな栃の木(樹齢250年以上とも)です。そうです。上記の写真の栃の木であります。ただ現在は、残念ながら切り株のみが残っています。ご覧の通りです。
これは初夏の石碑の様子です。薬局の休憩室から撮りました。切り株は雑草に隠れそうになっています。
江戸時代の末期、文久元年(1861年)幕府はこの魚沼一帯を会津藩に組み入れる支配替えを行いました。その翌年には幕藩体制に京都守護職を作り、会津藩主松平容保をもってその任に当たらせ、またその翌年の文久三年、その支配下に新選組が置かれました。ここ小出島では会津藩の配置換えを機に、出張陣屋の誘致がおこり、ついに小出島陣屋が置かれる事となりました。しかし、世の大勢は既に徳川慶喜による大政奉還、松平容保の守護職解任、鳥羽伏見の敗戦後の会津討伐へと向かっていました。こうした中、この小出島陣屋でも臨戦態勢がしかれたのであります。
慶応四年四月(1868年)。小出島戊辰戦争がついに勃発。この地においても官軍(新政府軍)と幕府軍(会津藩)が激しくぶつかり合い、双方少なからぬ死傷者を出したのであります。
当時存在した、会津藩の陣屋跡の敷地に、明治35年9月、小出島戊辰戦争の慰霊の石碑
「懐旧碑」
が建てられました。それは今も、薬局から数メートルの所に静かに存在しています。下は正面から撮った写真です。切り株はこの後方に見えます。
写真には写っていませんが、石碑の左には、負傷して民家に隠れ、後自害した、会津藩士の辞世の句
「筒音に 鳴く音やすめしほととぎす 会津に告げよ 武夫(もののふ)の死を」
を記した歌碑もあります。日本人同士が互いの大義のため戦い、そして、命を落としたのです。それらの人々を想い、しばし合掌・・・・。
維新から150年以上経った現在も、とちの木薬局の傍には、当時を偲ばせる佇まいがあります。
新潟県魚沼市。もうすぐこの地には雪が積もり、この石碑をもすっぽりと覆い尽くしてしまうでしょう…。